・人見城が何時頃に築かれたのかは判りませんが、人見恩和の居館だったと伝えられています。
人見氏は武蔵七党のひとつ猪俣党の支族で、河勾政基の子供である政経が武蔵国榛沢郡人見に配された事から地名に因み「人見」姓を掲げたとされます。別説では武蔵国幡羅郡人見邑を本貫地にしたとの説もあります。
何れもにしても人見氏の本拠地は武蔵国で、人見氏関係の史跡も多くが埼玉県に集中しています。
太平記に登場する人見四郎入道恩阿も武蔵国榛沢郡人見出身の老武士として描かれており、元弘の乱では幕府方として従軍し、楠正成が立て籠もった赤坂城に抜け駆けで攻め立て討死したと記されています。
太平記が事実に近いならば、人見城は人見四郎入道恩阿の居館というよりも実際は当地に配された別の人見氏で、後年、人見家の中でも著名だった恩阿の名前にすり替わった印象を受けます。
恩阿が討死した後も人見氏が滅亡した訳ではありませんが、恩阿の子供とされる人見行氏は鎌倉幕府が滅亡すると所領を失い丹波国高瀬郷出雲里に寓居した事から、一族も同様に没落した可能性があります。
その後の人見城の歴史については不詳ですが、城郭には鎌倉時代の居館とは異なる軍事的工夫が随所に施されている事から戦国時代に拡張整備された形跡が見られます。
人見城の東端に鎮座している大宮神社は白鳳2年に開創したと伝わる神社で、西端に境内を構えている昌福寺はその別当寺院だったとされる事から、人見城とは関係が深かったと思われます。
人見城は碓氷河の支流である柳瀬川右岸の河岸段丘に位置する崖端城で、東西約400m、南北約200mの規模となっています。大きく9つの廓で構成され、廓1〜7は城の中核を成し、廓1が本丸に相当、廓8と9が「東廓」と呼ばれています。
現在も、土塁や空堀等が随所に見られ貴重な存在です。
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