・下田島城は戦国時代に築かれたのが始まりとされますが、記録が残るような目立った働きのないまま破棄されたようです。
寛文3年に岩松秀純が4代徳川家綱から100石が加増され、合計120石で交代寄合の列格し下田島城の跡地を利用し陣屋を設けています。
岩松家は新田家の有力な一族で、惣領家だった新田家が没落した事で、事実上の惣領家となり金山城を本拠地として版図を広げました。
しかし、戦国時代になると家臣だった横瀬泰繁の下克上により金山城を奪われ、当主だった岩松氏純は自刃、氏純の子供である岩松守純は落ち延びたものの没落を余儀なくされました。
慶長16年に守純は嫡男の岩松豊純と共に初代将軍徳川家康に招かれ、新田家の家系図について問答があり、内容は不詳なものの、家康からは不快を買ったようです。
徳川家は新田家一族である世良田家の傍流、得川家の後裔を自称しているものの岩松家が所有していた家系図からは得川家と徳川家を結び付けるような流れにはなっておらず、それを守純から指摘されたとも云われています。
徳川家が得川家の後裔を自称する以上、岩松家は本家筋になる事も気に入らなかったのかも知れません。
結局、岩松家は厚遇される事はなく旗本に列格されたものの、上野国新田郡野井村感応寺曲輪20石に留まっています。
豊純の跡を継いだ岩松秀純は幕府の重鎮である天海大僧正を後ろ盾を得て、大身旗本に取り立てられる機運が高まりましたが、天海が死去した事で立ち消えとなりました。
しかし、壬生藩主阿部忠秋の推挙と3代将軍徳川家光13回忌の特赦等により上野国新田郡下田島100石が加増され合計120石となっています。
格式は120石で小録ながら交代寄合、江戸城の詰所では柳の間と諸大名波の扱いを受けるようになりました。
120石は大藩では下級武士、小藩でも中級武士程度の知行ですが、下田島城は100m四方の規模を持ち、北西隅と南西隅には古墳を利用したと思われる櫓台を設け、周囲を堀と土塁で囲った数千石を知行する大身武士の陣屋並みの規模でした。
現在は陣屋の敷地全域が高校の敷地として利用されている為、多くが消滅し僅かに南西隅の櫓台と土塁と堀の一部が遺構として残されています。
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