・吉良上野介陣屋は寛永5年に吉良若狭守義冬によって築かれました。
吉良家は足利家3代目当主足利義氏の長子である長氏を祖とする名族で、三河国幡豆郡吉良荘を本貫地として事から地名に因み「吉良」姓を掲げました。
室町時代には足利将軍家の有力一族として家格が高く足利御三家の筆頭に格付けられ「御所が絶えれば吉良が継ぎ、吉良が絶えれば今川が継ぐ」とも謳われました。
しかし、大名化は出来ず、戦国時代には今川家や松平家と縁戚関係を築き従属する事で命脈を保っています。
吉良義定の生母は徳川家康の祖父である松平清康の娘であった事から、家康とは従兄弟にあたり、慶長5年に発生した関ヶ原合戦で徳川方として参陣した事から三河国吉良に3千石が安堵されています。
跡を継いだ吉良義弥は慶長13年に従五位下、侍従、左兵衛督に叙任され高家職に就任、特に幕府と朝廷間の交渉、連絡に尽力しています。
吉良義冬は吉良義弥の長男として生まれ、家督を継ぐ前の寛永5年に上野国碓氷郡人見村約300石、上野国緑埜郡白石村約700石が与えられ、白石村に陣屋を設けています。
義冬は寛永20年に義弥の死去に伴い吉良家の家督と所領3000石を継ぐ事となり合計4000石となっています。
伝承によると義冬の奥方である茂姫(酒井忠吉の娘)は流産癖があった事から、新たに懐妊すると、領内視察を金て安産に効能があるとされる伊香保温泉に度々奥方を連れ立って湯浴びをし白石村の陣屋を訪れていたそうです。
寛永18年の秋に恒例となった伊香保温泉の湯治を終え、白石村の陣屋で一息すると奥方が急に産気づき、元気な男の赤ん坊を出産、この赤ん坊こそ、赤穂事件で赤穂浪士に謀殺された吉良上野介義央とされ、陣屋跡の一角には奥方が出産の際に利用した井戸が残されています。
元禄14年に松の廊下事件が発生すると吉良義央は無罪放免になったものの、結果的に世間からの風当りも強く、屋敷は江戸時の郊外にあたる本所に遷され隠居に追い込まれています。
跡を継いだ吉良義周も、元禄15年に赤穂浪士により本所吉良邸討ち入りで、義父の義央を討ち取られた事から元禄16年に「仕方不届」により改易となり高島藩諏訪家に預けられ、白石村の陣屋も廃されています。
吉良上野介陣屋は発掘調査で、近世の溝状遺構7条、柵列を伴う溝状遺構等が確認されましたが、規模や建物の数等の詳細は判っていません。
近隣にある龍泉寺は吉良義冬が開創したと伝わる吉良家の領内位牌寺で、本堂には当地を支配した吉良家四代の位牌が安置されています。
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