・蛇屋敷が何時頃築かれたのかは判りませんが、南北朝時代には一井貞政の居館だったとされます。
一井家は上野国新田荘を本貫として新田家本宗家初代である新田義重の4世孫の堀口家貞(家定)の庶子、貞政が上野国新田郡一井邑(太田市新田市野井)を相続した際、地名に因み「一井」姓を掲げたのが始まりとされます。
一井邑に関しては、岩松文書の一端である元久2年の地頭職下知状の中に一井郷と記され、嘉暦2年の注文に一井郷、田二十町八反十代畠二町在家十一字と記されています。
元弘3年に新田家の惣領家当主である新田義貞が生品神社で鎌倉幕府打倒の為に挙兵すると、貞政(腹違いの兄、堀口貞満の舎弟四郎行義)も参加しています。
建武の新政では武者所一番頭人新田義顕の下で寄人に抜擢され新田一族の中でも上位に格付けされていました。
その後、貞政は越後国守護職に就任した新田義貞を補佐する守護代のような役割を担い、越後国内の武将の取次を行っています。
南北朝時代には引き続き義貞に従い南朝方として行動し、北陸戦線では尊良親王等を奉じて金ケ崎城に籠城したものの、北朝方の足利軍に攻められ落城、貞政も自刃して果てています。
貞政の跡は子供である一井左近将監政家、その跡は政家の子供である一井兵部少輔氏政、その跡は氏政の子供である一井兵部大輔義時が継いだとされます。
因みに蛇屋敷の「蛇=ヘビ」は氏政と義時の官位である「兵部=ヒョウブ」が訛ったものと推察されています。
蛇屋敷は大凡東西約80m、南北約100m程の単郭の居館で、周囲を水堀と土塁で囲っていたようです。
市野井筑には現在でも水堀跡と思われる地形で区画されている中世の屋敷跡が多く見られ、当時の景観を感じられます。
蛇屋敷の北側の堀は新田湧水群を形成している湧水池(一の字池)の一つでもあり、一文字のような形状をしている事から「一井」の地名が起こったとも云われています。
蛇屋敷の跡地の周辺では応永元年や永和四年の銘がある板碑や、中世まで遡ると思われる宝塔等の石造物が残されています。
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