・石倉城は文明17年に上野国守護代の長尾忠房の嫡子である長尾憲景が築城したのが始まりとされます。
ただし、忠房の子供は忠政や憲明、あるいは忠綱と記載される例もあり系図的には混乱しています。
憲景は永正9年に発生した新井城の攻防戦により討死した為、3男の長尾長景が石倉城の城主に就任したようです。
しかし、度重なる利根川の氾濫により本流が広瀬川左岸から久留馬川に遷った事から城域が分断され、三之丸部分を拡張整備し厩橋城を築城、当地の部分は捨て置かれたようです。
石倉城の由緒的には長尾長景が城主ですが、一般的には長野賢忠とされ、長野家は越後上杉家から支援を受けていたとされます。
伝承によると天文3年の氾濫により石倉城の堀として引き込んでいた水路に大量の泥水が流れ込み、本丸と二之丸は壊滅的な被害を被ったと伝えられています。
その後、武田信玄の上野国侵攻により長野氏方の厩橋城を攻めるにあたり、対岸の旧石倉城の城域は恰好の拠点に成り得た事から、拡張整備が行われたようです。
信玄は厩橋城に続いて永禄9年には長尾家の本城である箕輪城も陥落させていますが、一方で、上杉方の記録によると永禄8年に石倉城を攻め落としたとしている為、ここでも混乱しています。
天正10年に武田家が滅亡すると、厩橋城には織田家の家臣滝川一益が入ったものの、本能寺の変で織田信長が死去すると、混乱を生じ自領に引き上げた為、一時、上杉方が厩橋城を掌握したようです。
小田原北条氏は厩橋城攻略の為、石倉城を拠点とし、厩橋城を奪取した後も支城として寺尾左馬助(小林左馬助)を配し守備させています。
天正18年に発生した小田原合戦では豊臣軍に与した徳川家康の家臣松平(依田)康国の猛攻を浴び、康国を討ち取ったものの、体制を崩すには至らず、指揮権が移譲された康国の弟、康寛の采配により落城、その後、小田原城が開城に応じ北条家が没落すると廃城となっています。
現在は利根川の氾濫と市街化により明確な遺構は失われています。
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