・力丸城は南北朝時代の貞治6年/正平22年に那波式部少輔大江宗廣によって築かれたとされます。
資料によって異なりますが那波日向盛廣宗と那波式部少輔大江宗廣は同一人物のようです。
宗廣は那波家の一族で、上野国多勢郡力丸村を本貫とした事から地名に因み「力丸」姓を掲げたとされます。
応永14年に宗廣は力丸城の南西方向に城の裏鬼門鎮護の為、善昌寺を開創、寺号は宗廣の号「善昌」に由来すると伝えられています。
一方、宗廣は那波城の城主でもあったようで、応永元年には河内国出身の白崖宝生禅師を玉泉寺に招いて臨済宗に改宗開山させており、応永15年に宗廣が死去すると宗廣の戒名「泉龍寺殿秀峯宗公大居士」に因み「泉龍寺」に改称しています。
善昌寺も応永15年に宗廣が開基との由緒になっている事から、死去した際、宗廣が信仰の対象になったと思われます。
又、善昌寺は長禄2年に泉龍寺四十七世実庵玄参大和尚が開山ともあり、この年に臨済宗に改宗開山し泉龍寺の末寺になったのかも知れません。
その後の力丸城の経緯は判りませんが、本家筋の那波家と行動を共にしたと推定されています。
戦国時代の力丸佐助宗也とその子供である力丸伊賀守父子は天正18年に発生した小田原の役で、那波氏と共に小田原北条氏方に加担した事から北条氏が敗北すると領主格からは没落したようです。
力丸城は中世の平城で、実城である本丸と二之丸の周囲には家臣屋敷と思われる環濠屋敷が複雑に配され、それぞれを堀又は水路で結ぶ複雑な縄張りとなっています。
大外の堀の内部には北東の鬼門鎮護と思われる法楽寺、南東の裏鬼門鎮護の善昌寺が境内を構え、南側には城下町と思われる「宿」が配されていました。
現在は堀の跡を利用したと思われる水路や、一部複雑な形状の堀跡が道路となって確認出来ます。
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