後閑館

群馬県:歴史・観光・見所群馬県の城郭>後閑館
後閑館:略データ
・場 所・群馬県利根郡みなかみ町後閑
・築城年・南北朝時代初頭頃
・築城者・後閑二郎祐房
・城 主・後閑氏、増田氏
・構 造・居館
・文化財・みなかみ町指定史跡
・指定日・昭和50年5月21日
・概 要・後ろ閑館は南北朝時代初頭頃に後閑二郎祐房が後閑氏六苗を率いて当地に入部した際、領内開発の拠点として築いたのが始まりとされます。

その後、後閑館の背後の高台に詰城として機能したと思われる内小山砦を築き、祐房は永和4年に死去しています。

伝承によると後閑祐房の妾である加良志奈が、嫉妬により正室の殺害を画策するも、発覚した事から捕らえられ、後閑館の庭園の隅に蛇と共に生き埋めにされ、出てこれないように上に石を置いたそうです。

すると、その石が次第に大きくなり、さらに毒気を纏った事から、誤って触ると、その毒気により死に至る者が相次ぎました。

その為、寛政年間にその石を「からしな霊神」として奉斎するようになると、被害が亡くなったと伝えられています。

天文23年に7代民部泰良が湯桧曽村で嗣子がなく死去し、父親である茂作郎が隠居し、文禄元年に死去すると後閑家の直径は断絶、家督の娘婿である増田正雲斉が引き継いでいます。

その後は増田家が当地の有力者として大きな力を保持し、庄屋等の上役を歴任しています。

後閑館は利根川左岸の河岸段丘上に位置し、館の規模は約60m×50mの台形状の平面で、背後の高台(内小山砦)以外の三方を土居で囲い、正面には石垣を積んで威容を誇りました。

現在も北西側の土塁と正面道路側の石垣が良く残っており、屋敷内に建立されている増田堂の傍らには増田家の墓碑となる五輪塔が残されています。

後閑館の跡地は貴重な事から、みなかみ町指定史跡に指定されています。

群馬県:城郭・再生リスト
後閑館:付近地図
群馬県の城郭
上野城浄法寺館吉良上野介陣屋矢田堀城天幕城神保館北新波砦漆窪城森下城阿岨城幕岩城小沢城荘田城力丸城宿阿内城那波城三ツ木城赤岩城名胡桃城台源氏館今村城青柳城元島名城高瀬陣屋板鼻陣屋渋川寄居城箱田城岩鼻陣屋下田島城蛇屋敷八幡原館和田下之城津久田城禰津陣屋倉賀野城堀口館小串館大友城新田館阿佐美館役原城矢田陣屋長根城久永氏陣屋石倉城山子田城木部氏館後閑館桐生陣屋海老瀬城内出城簗瀬城上泉城世良田館江田館管沼城岩松館原城中村城桃井城総社城小川城深沢城女渕城蒼海城人見城猿ヶ京城麻場城
※ 相談や質問は大変失礼ですが、メールのみとさせていただきます。 回答によって不都合や不利益をこうむっても当サイトは一切責任を負いません。又、回答を直接的(当サイトの名前を使って)に交渉や請求の手段とすることはご遠慮くださるようお願い申し上げます。 予告なしに追加、書き替えを行いますのでご了承ください。尚、「群馬県:歴史・観光・見所」は「群馬県の歴史」、「郷土資料辞典−群馬県」、「日本の城下町−関東(一)」、「城郭と城下町−関東」、「パンフレット」、「案内板」、「関係HP」等を参考にさせていただいています。※プライバシーポリシーはこちらです。