・後ろ閑館は南北朝時代初頭頃に後閑二郎祐房が後閑氏六苗を率いて当地に入部した際、領内開発の拠点として築いたのが始まりとされます。
その後、後閑館の背後の高台に詰城として機能したと思われる内小山砦を築き、祐房は永和4年に死去しています。
伝承によると後閑祐房の妾である加良志奈が、嫉妬により正室の殺害を画策するも、発覚した事から捕らえられ、後閑館の庭園の隅に蛇と共に生き埋めにされ、出てこれないように上に石を置いたそうです。
すると、その石が次第に大きくなり、さらに毒気を纏った事から、誤って触ると、その毒気により死に至る者が相次ぎました。
その為、寛政年間にその石を「からしな霊神」として奉斎するようになると、被害が亡くなったと伝えられています。
天文23年に7代民部泰良が湯桧曽村で嗣子がなく死去し、父親である茂作郎が隠居し、文禄元年に死去すると後閑家の直径は断絶、家督の娘婿である増田正雲斉が引き継いでいます。
その後は増田家が当地の有力者として大きな力を保持し、庄屋等の上役を歴任しています。
後閑館は利根川左岸の河岸段丘上に位置し、館の規模は約60m×50mの台形状の平面で、背後の高台(内小山砦)以外の三方を土居で囲い、正面には石垣を積んで威容を誇りました。
現在も北西側の土塁と正面道路側の石垣が良く残っており、屋敷内に建立されている増田堂の傍らには増田家の墓碑となる五輪塔が残されています。
後閑館の跡地は貴重な事から、みなかみ町指定史跡に指定されています。
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