・宮崎城は天正19年に小幡氏の一族で旗本とされる宮崎和泉守が築いたとされます。
その後、武田家に従い武田二十四将に数えられた小幡信真が弟の小幡播磨守昌高を宮崎城に配したようです。
小幡昌高は武田家から独自に参陣するよう求められたり、信真の代役を務める等、一族の中でも重要視されていた人物で、宮崎城も小幡家の本城である国峯城の有力な支城だった事が窺えます。
小幡家は天正10年に武田家が滅亡すると織田家に従い、信真は織田家家臣である滝川一益の与力となりました。
同年、織田信長が本能寺の変で死去すると後ろ盾を失った一益は自領に引き上げた為、信真は小田原北条氏に従っています。
天正18年の小田原の役の際、小幡家は引き続き北条家に従い、信真の跡を継いだ小幡信定は宮崎城に小幡帯刀と庭屋左衛門、又は小幡吉秀と小幡則信を城将として配しています 。
豊臣軍の中山道方面からは、前田利家をはじめ、上杉景勝、真田昌幸、依田康国等が進軍、宮崎城には上杉景勝の別働舞台である藤田信吉、木戸玄斎、村上国清等が攻略に当たり、落城に至っています。
北条家が敗北すると小幡家も改易となり、代わって宮崎城には徳川家康に従った奥平昌信が3万石で入封しています。
昌信は宮崎城を近代城郭へと拡張整備し、城下町の町割り等を行ったと思われますが、慶長5年の関ヶ原の戦いの功績により、慶長6年に加納藩10万石で加増移封になった為、宮崎城は廃城、町人町は下仁田街道(上州姫街道)の宿場町である宮崎宿となっています。
宮崎城は鏑川北岸の比高約50m程度の段丘上に築かれ、背後には神成城が控えている事から、戦国時代は神成城を詰城として見立て、宮崎城はその居館のような役割を持っていたと推定されています。
西端に本丸、その東側に二之丸を配した梯郭式の城郭で、二之丸の北端には櫓台が設けられ、二之丸の東から北にかけて外堀、本丸と神成城が築かれていた神成山側には堀切、二之丸との間には内堀が配されていました。
現在は大部分が富岡市立西中学校の敷地と畑地になっており、特に校舎建設の際に大規模な造成を行った事から多くの遺構は失われています。
ただし、神成山に接する側には堀切跡と思われる窪みや土塁跡と思われる土盛が残されています。
群馬県:城郭・再生リスト
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